どこまで社会保障を認めるかは政策の力

第4回国分寺市民憲法教室より

 今回のテーマは、「健康で文化的な最低限度の生活」の保障。憲法25条の生存権です。
*憲法25条
①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
写真右、国分寺市民憲法教室

 東京地裁で6月26日注目すべき判決がありました。70歳以上の生活保護受給者への老齢加算を平成18年に廃止。東京都内の高齢者が居住する7区3市に廃止決定の取り消しを求め訴訟。判決は、老齢加算を適法と認め、原告の請求を棄却しました。生活保護制度改定の是非を問う訴訟は、昭和30年代に生活保護の水準が争われた「朝日訴訟」以来です。

 朝日訴訟も、堀木訴訟も裁判所は、健康で文化的な最低限度の生活を具体化するのは、立法に任せると判断しています。その立法が、具体化しない場合は、どうするのでしょうか。政治の中で具体化するといっても、今の日本の政治状況では、結局多数決で決まってしまいます。ヨーロッパでは、労働組合が動き、政権交代し、政策が実現していきます。

 そもそも憲法は、国家権力を制限するものです。そしてとくに声を出しにくい小数の人のことを考えねばなりません。何が最低限度の生活かは、特定の時代の特定の社会において、司法において、ある程度客観的に決定できるのではないだろうか。

 とはいっても、現状実際具体化するのは、政策によります。

 今日の受講で、受講生から政治家は憲法と歴史を勉強してから立候補すべきだという意見が飛び交いました。(その通り!)
 
 以前尊敬する伊藤真先生は、憲法に基づく議会制民主主義とは多数決ではない。少数者のことを考えて議論をし尽くし、決めていくことだと言っていたことを思い出しました。