朝鮮の子どもたちと生きた教師〜上甲米太郎

高麗博物館 企画展より

東京生活者ネットワークの近くに高麗博物館があります。高麗博物館には、学校では伝えられてこなかった事実の展示があります。2001年12月に開館して、7年目。毎回企画の展示コーナーは、目を見張るものばかり。今回展示の上甲米太郎さんの教師としての信念をもった壮絶な生き方と今の学校の管理教育を重ね、パネルの展示物に見入ってしまいました。
写真上、高麗博物館の様子。狭い館内に、情報がいっぱいです。上甲米太郎の企画は10月26日まで展示

 上甲米太郎は、植民地時代の朝鮮で朝鮮人が行く公立普通学校の教師になりました。朝鮮語を使い、子どもたちへ熱心に教育を取り組みました。下宿先は、敢えて朝鮮人の大家のところを選びます。その中で、あまりに貧しい朝鮮人の暮らしに日々接し、社会問題に関心を持つようになります。

 1930年に創刊された新しいプロレタリア教育を提唱する「新興教育」の読者になり、読書会を結成。朝鮮総督府は言動を警戒し、上甲は教え子とともに特攻警察によって、治安維持法で逮捕されます。当時上甲は、校長先生でした。教師の資格を剥奪され、刑務所出所後は土木労働などをし、特高警察の指示で、北海道に強制連行される朝鮮人労働者の通訳・労務係りにされます。後に三井三池炭鉱に移動し、敗戦。その後は三池炭鉱をレッドパージされ、大牟田市で自由労働者として朝鮮人集住地区に住みます。分け隔てすることなく教え、生きた上甲は、戦後もたくさんの地域の人々から慕われました。

 さて今、教育の管理下・競争論理の中で、現場教師は非常に忙しい日々を過ごしています。学校長の権限も非常に強くなっています。2006年4月に東京都教育委員会から出された「職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決の禁止の通知」の撤回を求めている東京都立三鷹高校校長が、都教委に対して公開討論に応じるように要請。校長は、自分の信条は基本的人権の尊重と平和主義であるとし、中でも言論の自由は社会の発展、活性化に必要な民主主義の基本であり、教育現場において尊重すべき重要なものであるが、都教委の「通知」は言論の自由を奪うものであると記者会見で述べていました。

 今、上甲が生きた時代とは違います。ぜひこの校長の声が都教委を動かして欲しい。しかし、返事はいまだないようです。今の教育は、いったいどこへ向かうのでしょうか。
写真下、右側が上甲米太郎